【感想】華岡青洲の妻 /有吉佐和子
人間の性質のうちで最も醜く、そして最も人間らしいものは、「嫉妬心」だと思う。
己を省みても、やむにやまれぬ嫉妬心に苛まれ、自己嫌悪に苦しむ事が多々ある。
人間の本能である限り、たくましく生きるために必要なものであることは承知している。ただただ、他者に嫉妬せず穏やかな人間であれば、どんなに立派な人間であれるだろうと日々思う。
「華岡青洲の妻」。これは華岡青洲を愛するが故、嫁姑の間で起こる嫉妬の争いの物語。
華岡青洲は、世界で初めて麻酔薬を使った乳がんの手術に成功した人物である。彼が研究していた麻酔薬の完成には、どうしても人体実験が必要であった。その人体実験に進んで手を挙げたのは、妻と姑。死ぬ可能性さえもある実験に対して名乗りを挙げた2人。その2人の女性を突き動かしているのは、互いに負けじと青洲の愛を一身に受けたいという競争心と相手を憎む嫉妬心だった。
平常であれば、簡単に決断を下せる事柄ではない。嫉妬心や競争心とは、人を盲目にし、はたまた大胆にし、判断を鈍らせてしまう。
こうした人間の性質によって判断を誤ってしまう例も多々あるのだろう。しかしまた、この大胆さという性質が活きて良い結果をもたらすことも偶然にあるのかもしれない。
嫉妬心は、僕たち人間に何をもたらしてくれるのだろうか。難しい。
【感想】私の個人主義/ 夏目漱石
「自己主張」と「協調性」。
相反するこれらの性質は、人間関係においてどちらも大事である。
どちらに行き過ぎることなく、中庸であることが理想だと僕は思う。
「自己主張」に行き過ぎた姿。それは、狭量な世界で生きる人だ。物事の考え方への多様性を認められず、他者の意見に耳を貸すことができない。他者の持っている、もっと良い意見に対して盲目であるために答えを間違えることもある。また、自己の狭量な世界観に他者の意見を取り入れない事は、自己の成長を止めてしまうことでもある。
「協調性」に行き過ぎた姿。それは空っぽな人だ。自己の主張を覆い隠し、他人の意見に迎合する。他者とぶつからない事を目的としているため、議論の中では、創造的な役割は果たせない。
特に日本では、「協調性」を重んずる傾向が強く、「自己主張」すべきときに自己を出せない人間が多いように思う。僕もその中の一人である。
「協調性」を重んずる社会にあって、正しき「自己主張」をするためにはどうすれば良いのか。それは僕にとって一つの解決できない課題である。
夏目漱石は、この「私の個人主義」で、自己主張(夏目漱石は「自己の個性の発展」と言っているが僕は、これを「自己主張」と同義だと捉えた)をするにあたり、他者および社会に果たすべき責任や義務を明解に述べている。
「自己の個性の発展を仕遂ようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。」
他者と自分とは、根本的に目指すべきものも考え方も価値観も違うのである。そこに自分の価値観が唯一無二で正しいと錯覚し、他者に押し付ける事は、夏目漱石が提唱する個人主義ではない。他者の個性を認め、卑下したり反対しないこと。言い換えれば、他人は他人、自分は自分だと開き直る事。そのルールを守った上での自己主張をすべきなのだ。
明治の初期は、目まぐるしく社会が変わった時代であり、大志を抱いて自分の進むべき道を進んで行った人間がたくさん居たのだろう。そのような社会にあって夏目漱石が思索した個人主義は、現代において志を持った人間に対しても有用な考えであると思う。
【感想】レ・ミゼラブル(1)~(5)/ヴィクトル・ユゴー
レ・ミゼラブルは、日本語で「みじめな人々」。そのタイトル通り、主人公ジャンヴァルジャンをはじめとした、当時のフランス社会の底辺で苦しみ続けた人間達の物語が綴られている。
ミュージカルや映画としても有名な作品だが、僕は小説として読むことをお勧めしたい。それは、映画などでは表現できない登場人物の葛藤や、物語を中断して繰り広げられるユゴーの思想・哲学は、小説の中でしか味わえないからであり、そういったものが、ユゴーにとって一番読者に伝えたい事だと思うからである。
◎ジャンヴァルジャンとミリエル司教
ジャンヴァルジャンの物語は、ミリエル司教との出会いからはじまる。社会から虐められ続け、人間の良心を信じることができなくなってしまったジャンヴァルジャン。どんな悪人に見えても、その人間に必ず良心が備わっていると信じるミリエル司教。その2人が出会ったとき、ミリエル司教の善の力が、ジャンヴァルジャンの中の悪を善へと転換させた。そして、ほんの1回のミリエル司教の善の行為は、ジャンヴァルジャンが死ぬまで、正義を貫き通す力になった。
どんなに裏切られ、どんな目にあっても相手の良心を信じ続けようとすることは大変に難しい。しかし、相手を信じ続ける行為は、ミリエル司教とジャンヴァルジャンのように人間を悪から善へ180°の転換を成し遂げられる事を忘れてはならない。
◎ジャンヴァルジャンの葛藤
ジャンヴァルジャンの葛藤は、物語の中で大きく2つあると思っている。
1つは、長年かけて築き上げた市長としての地位を持ったジャンヴァルジャンが、自分の代わりに冤罪を受けようとしている囚人を目の前にしたときの葛藤である。自首し囚人を守ろうとすれば市長としての地位は剥奪され、無期懲役として牢獄へ繋がれる。黙っていれば、自分は助かるが、全く罪もない囚人を無期懲役にさせてしまう。この場面で、ジャンヴァルジャンは、苦悩しながらも、ミリエル司教の教えを守り、正義の選択である自首すること決める。
もう1つは、コゼットとマリユスの恋愛についての葛藤である。ジャンヴァルジャンにとって、人生の全てだと言ってよいコゼット。そんなコゼットがマリユスと恋仲であることを知ったとき、ジャンヴァルジャンは、自分の幸せとコゼットの幸せの間で葛藤することになる。自分の幸せを優先しようと思えば、死にゆくマリユスを見殺しにすることも出来たであろう。誰もが、マリユスの死に対して「あれはしょうがなかった」と言えるような状況でもあった。しかし、ジャンヴァルジャンは、自分の命も顧みず、マリユスを助けにゆく事を決める。自分の幸せを奪う相手であるマリユスを。
この二つの葛藤に対するジャンヴァルジャンの選択は、ジャンヴァルジャンが、他人の不幸の上に自分の幸福を築こうとはしない正義の人間であることを物語っている。きっと、ユゴーが描く理想の人間とは、こういう人間なのだろう。
◎みじめな人「ファンチーヌ」
この物語には、タイトルの通り「みじめな人間」が多く登場する。中でも一番みじめな人間として描かれているのは、コゼットの母親ファンチーヌだろう。それはレ・ミゼラブルの劇中で不幸の中で死にゆくファンチーヌが歌う「I Dreamed A Dream(夢やぶれて)」の歌詞からも分かる。コゼットを身ごもったまま男に逃げられ、コゼットを養うために女工で働くものの周囲からの嫉妬で働けなくなってしまい、髪の毛を売り、前歯を売り、最後には売春婦へと身を落とす。信頼し、コゼットを預けていたテナルディエ夫妻は、大悪党で、せっかく稼いだお金も、だまし取られてしまう。
おそらく、どの時代にも犠牲になりやすいのは女性であることをユゴーは読者に伝えたいのではないだろうか。子供を最後に守るのは母親であり、そのためにはどこまでも自分を犠牲にしてしまう。それは、法律という対処が施された今の時代でさえ、付きまとっている問題だと思う。
◎ジャヴェールの葛藤
ジャンヴァルジャンを犯罪者として追い回し続けたジャヴェール。彼は、最後に自殺する。それは、自分にとって最大の悪党だと思っていたジャンヴァルジャンに自分の命を救われたことで、自分が今まで正義だと信じていた信念が揺らいでしまったからである。揺らいでしまった信念では、もうジャンヴァルジャンを追い掛け回す事は出来ないが、信念を曲げることは法の下に生きてきた自身の人生を否定することになる。信念を否定することになるならば、死を選ぼう。そういった決心の下、彼は死を選んだ。
同じくユゴーの著書である「九十三年」に登場するゴーヴァンも自分の信念と現実の葛藤の下で死を選ぶ。(彼の場合は、自己の正義を守るために死を選ぶのだが)
この2人のように、死を持ってまでも、自己の信念と正義に忠実であり続ける姿には、圧巻である。付和雷同に陥りやすい僕にとって、自己の信念を曲げない2人の生き方に学びたい。
◎ユゴーの思想・哲学
物語を通してユゴーの思想・哲学が散見される。
僕の印象に残ったところを何点か紹介する。
「学問は強心剤でなければならない。享楽するとは、なんとつまらぬ目的であり、なんとみじめな野心であろう!畜生は享楽する。考えること、そこにこそ魂の勝利がある。人々の渇望に思想を差し出し、すべての人間に妙薬として神の観念を与え、彼らの心の中で良心と学問を和合させ、その神秘的な結合によって、人間を正しいものにする、これが真の哲学の役割である。(2巻/P.306)
学問を目的としてはいけない。身に着けた学問を世の中にどう活かしていこうかという良心も養わなければならない。その良心を育み、学問を和合させて正しい行動に導いていくのが哲学なのだという。新渡戸稲造も武士道の中で同じ事を言っていた。
「人生、不幸、孤独、遺棄、貧乏は、英雄を生む戦場であり、無名の英雄の方が、有名な英雄より偉大なこともある。しっかりした非凡な性格はこうしてつくられる。貧苦は大抵継母にあたるがときには母ともなる。貧窮は力強い魂と精神を生み、窮乏は自尊心の乳母であり、高潔な人々には、不幸がよい乳となる(3巻/P.148)」
不幸な境遇から、英雄が生まれる。自身の境遇を怨み、腐ったりしてはいけない。負けじ魂が大切。
「百日のうち一日だって、完全な喜びと完全な太陽はほとんどない。(中略)考え深い人たちは、幸福な人とか不幸な人という言葉をあまり使わない。明らかにあの世への入口ともいうべきこの世には、幸福な人など存在しない。人間の真の区別とはこうである。輝く人と、暗黒の人。暗黒の人間の数を減らして、輝く人間の数を増やすこと、それが目的である。教育!学問!と人々が叫ぶ理由がそこにある。読むこと学ぶことは、灯りをつけることである。拾い読みしたすべての綴りが、光を放つのである。しかも輝きは、必ずしも喜びということではない。輝きの中でも人は苦しむ。(中略)あなたがたが何かを認識しても、また何かを愛しても、やはり苦しむだろう。光は涙の中に生まれる(4巻/P.260)
完全に幸福に満たされている人生なんて存在しない。世の中、そんなに良い事ばかりでないことは誰でもわかっている。ただ、そいうった世の中でも、幸福を甘受する能力や、不幸を耐え忍ぶ能力を持ち合わせている人間には違って見えるのではないだろうか。そして、そういった能力は、教育や学問によって育まれる。
【感想】 李陵・山月記 / 中島敦
敗者になることを恐れて、競争に参加さえしない人間がいる。競争の舞台に立たないのだから自尊心が傷つけられることもなく、安楽に甘んじる事ができる。何かを為そうと思わないのであれば、それでもいい。しかし、何かを為そうと思っているにも関わらず、競争の舞台に立とうとしない者が成功を収められる事は、稀だろう。
この本に収録されている『山月記』は、競争の舞台に立とうとしない者への警告のために書かれたのだと思う。
「人間であった時、己は努めて人との交わりを避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを恐れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々とし瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、噴悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。」(P16)
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」。虎になってしまった李徴は、過去の自分の弱さをこのように名付けている。
李徴は、周囲から孤高の天才だと崇められていた。それは、自身の羞恥心を隠すために彼が作り上げた鎧を他人が見てつけた虚栄の評価だと彼は言っている。しかし同時に、天才であるという周囲の評価は、彼に自尊心を与える。「臆病」な自尊心を。
その「臆病な自尊心」が曲者だった。周囲からの天才という評価を守りたいが故に、自分の本当の評価が露呈される可能性がある他人との競争を避け、本当の評価を与えてくれるであろう師匠などにも怖くて就こうとしなかった。
結局、彼は、恥をかきたくないばかりに勝負に出ようともせず、決して負けない代わりに勝利を収めることも出来なかったのだ。
「事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の全てだったのだ。己よりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たるしかとなったものが幾らでもいるのだ。(P17 )
自身に才能がないと思っても努力し続けた人間、失敗や恥を恐れなかった人間。最後に結果を残したのはそういう人間だったと李徴は語っている。
今の僕にも、李徴の「臆病な自尊心」を感じる事がある。
「挑戦する勇気」と「諦めない心」を持ち続ける事が大切だと改めて思う。
【感想】黒い雨 / 井伏鱒二
広島原爆を題材にした小説。
主人公の壮年が原爆が投下された8月6日から終戦の8月15日までの日記を紹介する形で物語が進みます。
小説の形をとっていますが、多くの人の被爆体験記の寄せ集めのような作品です。
原爆投下直後の悲惨な状況だけでなく、戦時中の食料事情や被爆してしまった人のその後などが生々しく描かれてます。
題名の「黒い雨」とは、原爆投下後に振る大粒の雨のこと。
放射性物質が含まれているため、この雨に打たれると被爆してしまうそうです。
主人公の姪がこの黒い雨に打たれてしまったことで周囲から被爆を疑われ、縁談がことごとく断られてしまいます。
原爆の被害とは、2次にも3次にも広がっていくんですね。
原発の話ですが、結婚相手が原発の近くに住んでいるという理由で両親が結婚を許してくれない話をネットで見たことがあります。
そのお父さんは、
「ただ、五体満足で健康な孫の笑顔を見たいだけなんだ」
って言うそうなんです。もうなんとも言えない。
両親の気持ちも分かるし、結婚を許してもらえない子供達の気持ちも分かるもの。
原子力は、そのときだけでなく未来にも不幸の遺産を残すもの。
社会が、原子力に頼らないエネルギーシステムに早く切り替わって欲しいです。
【感想】野火 /大岡昇平
太平洋戦争末期、フィリピン戦線で部隊が壊滅してしまい路頭に迷った一等兵の話。
戦場の悲惨な情景とともに、死と隣り合わせになった人間の心理描写が鮮明に描かれています。
特に心理描写に関しては、主人公の心境やそのときの自己分析などがリアルで、実際に戦争を経験した人間だからこそ表現できるものなのだと思いました。
戦場の酷さ、中でもこの小説では兵士達の飢餓にスポットが当てられています。
極限状態にある主人公が行き着いた先は、戦友の肉を食べるかどうかの葛藤でした。
目を伏せたくなるような表現も多々含まれており、苦手な人は読まないほうがいいと思います。
以下は、戦争が終わり主人公が病院で新聞を読んでいたときの言葉です。
「朝夕配られて来る新聞の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼らに欺されたいらしい人達を私は理解できない。おそらく彼らは私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼らは思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。」
作者の伝えたかったことは、結局これなのだと思います。
本当の戦争の残酷さは、経験したものしか分からない。
しかし、戦争を知らない次の世代に、少しでも戦争の残酷さを伝えようとして、この作者は筆を執ったのではないでしょうか。
もう数十年すると、戦争を知る世代の人達がいなくなってしまいます。戦争の恐ろしさを次世代、次世代へと伝えていけるのか・・・戦争を知る人は心配なんだそうです。
【感想】マリーアントワネット(上)(下) /ツヴァイク
「中庸な人物を、時あって運命が掘り起こし、有無を言わさぬその鉄拳によって、彼ら本来の凡庸さを強引に抜け出させることができるということに対して、マリーアントワネットの生涯は、おそらく史上最も顕著な実例である。」
この本のはしがきに書かれている言葉です。
ツヴァイクは、マリーアントワネットを中庸だとか平凡な人間だったと称しています。
その平凡な人間がフランスの王妃として、フランス革命という時代の渦に飲み込まれたとき、どのように変化していくか、ツヴァイクはそれをこの本を通して読者に伝えてたいのだと思います。
歴史に語られるマリーアントワネットの姿は、贅沢三昧の王妃であることが多いと思います。
しかし、その贅沢三昧は、自身の苦しみ悲しみの反動であり、決して彼女にとって安穏であったわけではなかったようです。
いつしかその贅沢三昧は、民衆の怒りを買い、晩年は監獄で過ごさなければなってしまいます。
そう考えると、マリーアントワネット自身の心の安息は、ずっとなかったのかもしれません。
本を読む前は、ただフランス王妃という地位を利用して、贅沢の限りを尽くすような民衆の敵というイメージを持っていましたが、少し見方が変わりました。
歴史の事実だけを見ると、残酷な事柄も、それぞれの人物の葛藤や心境を知ることで、ずいぶんと見え方が変わるものですね。
最後に、マリーアントワネットが晩年に残して言葉を紹介します。
「不幸のうちに初めて人は、自分が何者であるかを本当に知るものです」
ツヴァイクは、この本の中で何回もこの言葉を出しています。
自分がの本当の姿・アイデンティティ・使命。それらは苦労とか不幸の中で思索する中で見つかるものなのかもしれませんね。
- 作者: シュテファン・ツワイク,Stefan Zweig,高橋禎二,秋山英夫
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