「他人の不幸は蜜の味」

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『他人の不幸は蜜の味

人間の悲しき性質の1つですが、よく考えてみると、僕はこの性質を、人とのコミュニケーションにおいて、大いに役立てようとしているのだなぁ~と思う。

 

具体的には、自分の失敗話や、自分を蔑むような話題を出して、相手に優越感に浸ってもらい、コミュニケーションを円滑に運ぼうとしているのだ。

 

おそらく、僕は、どんな人間でも「他人の不幸は蜜の味」だと思っていて、その蜜を味あわせてあげれば喜んでくれるだろうと、打算的にものを考えている。

 

そんなことを頭の中で転がしていると、太宰治の「人間失格」をふと思い出した。

この物語の主人公も、自分を「道化師」と称し、周りの人間を喜ばすためにわざと鉄棒で尻餅をついたり、バカなふりをしていた。

その主人公があるとき、さえない同級生から、その道化について「わざわざ(わざとだろ)」と声を掛けられる。主人公は、顔が真っ青になり、他人に自分の道化がばれてしまうことに怖くなり、気が気でなくなってしまう。

 

これを読んだときに、この主人公に大変共感した覚えがある。

他人とのコミュニケーションにおいて、この「道化」は大変に有効なのだ。そして、出来れば、この打算を他人には知られたくはない。知られるのは、やはり怖いのだ。

 

しかしまあ、この「道化」は、健全なる精神を持った人間が思いつく行動ではないのだろう。こういう考えを持った人間の末路は、この「人間失格」という物語からも分かるように、ひどく悲しいものになりそうだ。

 

そもそも、人間は「他人の不幸は蜜の味」という性質を皆が持っているんだろうと決めつけているところからしても、他人を端っから信じちゃいないのだ。

 

仏教の世界では、人間誰しも、心に「仏」が備わっていて、他人にも、その「仏」があるのだから、その「仏」の心を信じて接していきなさいという教えがある。

健全な精神と道徳性を持った仏教の考えと比べると、相手の「仏」の心どころが、相手の悪しき部分に頼んでコミュニケーションを取ろうとしている自体、不健全な行動であるともいえる。

 

忙しいときには、なかなか自分の行動に目を向けて思索することはできないが、たまにこんなことを考えるのも面白い。

 

 

人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))

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