【感想】後世への最大遺物・デンマルク国の話 /内村鑑三

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内村鑑三の講義録。

それぞれ、「後世への最大遺物」「デンマルク国の話」というテーマで講話したときの内容が収録されています。

内村鑑三が尊重する考え方・哲学にはとても啓発を受けます。「代表的日本人」と共に、何度も読みたい本のひとつです。

【後世への最大遺物】
「この世の中をズット通り過ぎて安らかに天国に往き、私の予備学校を卒業して天国なる大学校に入ってしまったならば、それでたくさんかと己の心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起こってくる。すなわち私に50年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望起こってくる。(中略)それで何もかならずしも後世の人が私を褒めたってくれいというのではない、私の名誉を遺したいというのではない、ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである」

これは冒頭の一部分です。この話の後、私たち人間が後世のために遺せる有益な遺物には何があるのかという講義が始まります。

内村鑑三は、キリスト教徒なのですが、キリスト教では功名心や野心というものが不浄なものだと考えらているそうです。本章では、後世へ遺物を遺し名を遺すことについて、キリスト教の教義へ違背するのではないかという内村鑑三の葛藤についても触れられています。

後世のために何かを遺したいという考えを持って生きることは、とても素敵な生き方ですよね。人生を通して遺すものもそうですが、自分がお世話になった組織についても言えるように思います。
組織を去るときに次に続く後輩のために何かを遺そうという行動は、見ていて清々しさを感じます。

自分だからこそ後世に遺せるモノ。そういうものを一生のうちに見つけられたら、とても幸せだろうと思います。

 

【デンマルク国の話】
「国の興亡は戦争の勝敗によりません。その民の平素の修養にあります。善き宗教、善き道徳、善き精神ありて国は戦争に負けても衰えません。」

戦争に負けて何もかも失ってしまったデンマークの国民が、戦争で荒廃してしまった大地に樹木を植え、国を蘇らせていく話。このデンマーク国の話を例にした教訓が紹介されています。

内村鑑三がこの話から一番に挙げている教訓は、国の強さは国民の強さだという事。
戦争に負け、何もかも失ってしまった時、それをばねに立ち上がれる強い国民の精神。そしてそれを養うための正しい宗教や道徳が根付いているかどうかが国の強さだと言っています。

また、荒廃した大地に樹木を植えることから復興を始めた話から、自然と共に生きることの大切さについて述べています。
自然が私達に与える恩恵のことを内村鑑三は、「天然の無限的生産力」とも呼んでいます。 国に富をもたらしたければ、自然の力に帰結することが大切なのだそうです。

この「デンマルク国の話」は、NHKのドキュメンタリー番組で福島県の農家の方が何度も読み返しているという話を聞いて知りました。
自然エネルギーから離れ、原発のような人工のエネルギーを頼ったことで、国に負債を残してしまった。
そのことを何年も前に内村鑑三が警告していたのかもしれませんね。

後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)

後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)

 

 

【感想】代表的日本人 /内村鑑三

代表的日本人 (岩波文庫)

この本は,明治時代初期に,内村鑑三が海外の人々に日本人のすばらしさを伝えるために書いた本です.

もともと英語で出版された本ですが,時代を経て日本語訳されたものなんですって.

同じ経緯で,新渡戸稲造も海外の人に向けて「武士道」を書いていますが,それもいつか読んでみたいですね.

内村鑑三は,西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮上人の5人の代表的日本人の人生を紹介し,理想的な人間というものを読者に訴えています.

最近,本屋を覗くと,人を惹きつけるテクニックや人望を得るための方法が書かれた所謂ハウツー本が並んでいることがあります.
ハウツー本が悪いとは思いませんが,上辺だけのテクニックばかりを学んで,日本人が昔から持っている根底の思想や哲学・道徳心みたいなものが置き去りにされているような気がしてしまいます.

内村鑑三が紹介している人物は,たくさんの人から愛され,尊敬され誰もが理想と思える人々です.
これらの人物の人生をたどると,その人望の裏には,日本人が古くから大事にしてきた道徳を遵守してことが分かります.

道徳なんて古いなんて言われてしまうかもしれませんが,いつの時代になっても人間の心や考え方の傾向・文化は変わらないと僕は思っています.
現代社会で成功した人のハウツー本もいいですが,昔から大事にされてきた日本人の生き方・考え方に学ぶことの方が成功の近道かもしれません.

そういう意味では,この本は打ってつけです.
いつか壁に突き当たったときは,是非また読みたい本です.座右の書として大切にします.

 

代表的日本人 (岩波文庫)

代表的日本人 (岩波文庫)

 

 

【感想】古代への情熱 /シュリーマン

古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫)

「かつてメックレンブルクの一商店の小僧はいまは発掘から帰ると、アテネでもっとも立派な邸宅に住んでいた。少年時代には貧しくて身体は弱く、その限界は故郷にごく近いところにかぎられ、その心は余儀なく日々のパンに向けられていた彼が、いまは自ら手にいれたもの、すなわち莫大な資産を手にして、思うままに働ける鋼鉄のような肉体力を楽しみながら、また彼があらゆる国々にもつ個人的な交際を楽しみながら、ホメロス時代のいにしえに彼がささげた研究に専心しながら、日々をすごした。」 【7章 晩年】

考古学者シュリーマンの自伝。

幼い頃から、プロテスタントの説教師である父親からギリシャ神話をよく聞かされていたシュリーマンは、そのギリシャ神話に登場する伝説の都市トロイヤがあると信じ、発掘を持って証明することを決意する。
その後、幼い頃の夢を決して忘れず、事業を起こし資金を貯め、遂にはトロイヤを発掘する。

この自伝を読んで、シュリーマンという人物に敬服してしまいました。
幼少の頃の夢を追い続ける執着心も異常ですが、何よりも夢を実現するための実行力と計画性が物凄い。

下積み時代には、将来の夢を実現するために、多忙な仕事の合間を縫って様々な国の言語の習得に努めます。
それも、1年に何ヶ国語もマスターしてしまうというペース。考えられません。

更に、貧乏から抜け出すためと発掘の資金を貯めるために事業を起こします。
波乱万丈な道のりにも関わらず努力に努力を重ね、最後には巨万の富を得ることになります。

また、彼の人生では大変な中でも要所要所で援助してくれる人物が現れます。
夢に向かって熱意を持って取り組んでいる人間には人が集まってくると言いますが、まさにこの事だと思います。

この本は、7章構成となっており、1章が「少年時代・商人時代」、つまりシュリーマンの下積み時代になっています。その後の章は、ほとんどが遺跡の発掘についての話で、考古学に興味がなければなかなか読むのに苦労する内容です。
1章は40ページほどの文章なので、夢を実現された偉人の執念や下積み時代を学ぶという意味では、1章だけ読むことをオススメします。

 

 

古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫)

古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫)

 

 

【感想】吾輩は猫である /夏目漱石

吾輩は猫である (角川文庫)

 

教師の家で飼われている猫が、主人とそれを取り巻く人間と生活を共にし描いた、人間観察日記のような小説。

夏目漱石は、明治時代の日本文化を批評することを目的にこの小説を書いたそうです。
なるほど、人間文化を批評するにあたり人間生活を傍観する第三者の立場である猫を使ったことは、とても利にかなっている気がします。主人公が人間であれば、人間という生物の文化に対して、ここまでつっこんだ批評を展開することは難しいのではないでしょうか。巧みですね。

内容は、いたってコミカル。登場人物は変人ばかりです。
日本文化を批判するには、その時代の特徴を如実に表した人間、つまり変人を登場させたほうが都合がよかったのかもしれません。
ただ、落語で出てくるような人間同士の馬鹿なやり取りの中にも、人間の本質を鋭く洞察する文章が出てくるのは、夏目漱石らしいと思います。

 

吾輩は猫である (角川文庫)

吾輩は猫である (角川文庫)

 

 

【感想】武田信玄(1~4巻) /新田次郎

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「日本はいま郡雄割拠の時代ではあるがこの時世がこのまま永続するものとは思われない。誰かが日本を統一しなければ民(たみ)百姓は安心して生業につくことはできない。強い者が弱い者を征服し、その強いものをさらに強い者が征服するのだ。弱い者は亡び、強い者は生き残るのがこの戦国だ。ところで、その戦国の時代に一番必要なものはなんであろうか。金も必要だ。新しい武器もほしい。産業も興こさなければならぬ。治水もやりたい。甲斐の民が安らかに生きていくための法度も要る。そちたちは、他国を歩いて、これらのことを調べて、その智識を土産に帰参して貰いたい」(風の巻・116)


戦国武将といえば、自己の野心である天下統一を目指し、私利私欲を満たして民を蔑ろするような印象を持たれる事が多い。しかし、武田信玄は、そのような武将ではない。彼は、弱い人間が不幸な思いをする戦国の世を終わらせ、民が安心できる平和な世を築くために天下統一を目指したいう。

この民を第一とした理念は、戦を行う上での規律や、彼の政治に反映されている。

戦では、兵に対して、敵陣の民家を襲い、食料を奪うような事は決して許さず、民の心を大切に扱った。また民のための政治に関しても、信玄は心を砕いていた。冒頭の言葉は、天下統一した後、民の生活を守れるよう、全国各地に家来を派遣し、技術を学ばせてこようとした場面である。政治に関するエピソードは、他にも次のようなものもある。

「信玄は戦地によく工事奉行を連れて行った。戦をするためでなく、その土地を検分させるためであった。信玄の頭の中には、戦いのすぐ後に来る、治安と経営があった。新しく手に入れた土地に新しい政治をするためには、工事奉行の知識を借りねばならなかった。ただ戦いに勝って、領土を拡張するだけでは、ほんとうに占領したことにはならないと考えていた。20年という長い時間をかけて信濃を制圧したが、いまやその信濃は、完全に信玄のものになっていた。それは戦いの後の政治に信濃の民が満足しているからであった。」(火の巻・276)

信玄の領土にいた民は幸せだったと思う。民衆の幸福を考えてくれる領主の元であれば、やはり領主のために戦いたいと思うのが人の心情ではないだろうか。

武田の軍は、信玄を中心にいた盤石な統制力を持っていたという。それは、将である信玄の人柄に触れ、この将に天下を治めてもらいたいという心からの願いが、そのような形になったのではないだろうか。

 

 

武田信玄 風の巻 (文春文庫)

武田信玄 風の巻 (文春文庫)

 

 

【感想】赤と黒(上)(下) / スタンダール

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野心家である事は、悪い事なのだろうか?
世の中では、野心的である事は、道徳に違背しているようで、人間の悪い性質の一つであるかのように扱われる。
しかし、野心的であることは、言葉を変えると「向上心」とも同義のようにも思える。平等主義の世界から頭一つ出たいと願う人間を向上心持たぬ保守的な人間たちが難癖つけて止めようとする。それが野心家が批判する世の中の構造であり、野心家が悪だと扱われる一つの原因になっているのではないだろうか。


この物語の主人公ジュリアンも野心家である。
材木屋の家に生まれながらも、明晰な頭脳を持ち合わせた彼は、若い頃から僧侶として身を立てる野心を持ち、ラテン語の勉強と聖書の暗記を続ける。その努力が功を奏し、彼は僧侶の世界、また貴族の世界に少しずつ足を踏み入れ、身を立てることに成功してゆく。
彼が物語の中で見せる胸中で他者を馬鹿にする態度や打算的な思考は、おそらく多くの人間にとって、偽善的に映るのだろう。しかし、これが向上心を持ち合わせた人間の性質ではなかろうか?ジュリアンは、全ての人間を馬鹿にしていたわけではない。彼の正義心に従って、尊敬すべき人間を尊敬し、軽蔑すべき人間を軽蔑していただけだと思う。己を向上させ前進させるためには、やはり正しき人間に目を向け、交際してゆくことが一番良い。向上心を持つ人間には、人間を選別すべき能力が備わっており、それが道徳的批判を生むのだろう。

この物語のもう一つの側面は、恋愛小説である。
彼が身を立てていく過程で出会った2人の女性との恋愛が描かれる。
1人は、献身的な性格を持ったレナーヌ夫人、もう1人は侯爵の令嬢であり自己中心的な性格を持ったマチルド。ジュリアンが、2人の対照的な性格を持った女性を口説き落としていく様は、やはり打算的である。しかし、恋愛が進むに連れて、彼は持ち前の冷静な判断を失い、最後には自らの身を滅ぼす結果になってしまう。
恋愛におけるジュリアンと女性との間の心理は事細かく描写されており、その変化が面白い。特にマチルドの一瞬、一瞬で気持ちが変転してゆく態度は、「女心と秋の空」という諺が似つかわしい。対照的にレナール夫人の自らが殺されかけたにも関わらず相手を愛しみ続ける献身的な態度は男性の自分としてはまったく信じられない。

心理的描写が多く、物語の展開はゆっくり進んでゆくが、野心家というキャラクターが打算的、厭世的に物事を観察し、そしてたまに正義感を発揮してゆく様は、読んでいて痛快さえ感じた。

 

赤と黒〈上〉 (岩波文庫)

赤と黒〈上〉 (岩波文庫)

 

 

赤と黒〈下〉 (岩波文庫 赤 526-4 9

赤と黒〈下〉 (岩波文庫 赤 526-4 9

 

 

【感想】阿Q正伝・狂人日記 / 魯迅

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「愚弱な国民は、たとえ体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人になるだけだ。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。むしろわれわれの最初に果たすべき任務は、かれらの精神を改造することだ。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むしろ文芸が第一だった。」

 

この本の最初、自序の一節です。

それまで、「医学」を志してきた魯迅は、ある経験を機に、人々を救うのは、「文芸」であることを悟ります。それは、「医学」で直接的に人を救うのではなく、「文芸」を通して人々の精神を変革していくことが大切だという理由でした。

 


「文芸」の道を志した魯迅は、同級生と共に雑誌を出版するも、うまくいかず、ある種の自暴自棄になってしまいます。このときの感じたもの悲しさを、魯迅は、「寂寞」と名づけました。

この「寂寞」という感情は、魯迅を苦しめ続けます。そして、魯迅自身は、この「寂寞」に耐えるために自分の魂に麻酔をかける術を見つけました。


「ただ自分の寂寞だけは、除かないわけにはいかなかった。それはあまりに苦痛だったから。そこで、いろいろの方法を用いて、自分の魂に麻酔させにかかった――自分を国民の中に埋めたり、自分を古代に返らせたり。その後も、もっと大きな寂寞、もっと大きな悲しみを、いくつも自分で体験したり、そとから眺めたりした。すべて私にとって、思い出すに堪えない、それらを私の脳といっしょに泥の中に沈めてしまいたいものばかりである。とはいえ、私の麻酔法はききめがあったらしく、青年時代の慷慨悲憤はもうおこらなくなった」

このとき魯迅が感じていた「寂寞」の心情は、この短編集に収録された「狂人日記」の狂人を通して訴えているのではないか思います。

この狂人は、自分の周囲の人が常に自分を食べようとしていると妄想します。この疑心暗鬼の心情は、世間から見離された魯迅自身が感じた寂寞の一部分だったのではないでしょうか。

また、「阿Q正伝」の主人公、阿Qが持つ「精神的勝利法」というのは、魯迅が「寂寞」を堪えるために使った麻酔法ではないかと思います。

阿Qの持つ「精神的勝利法」とは、勝負や喧嘩で負けたとしても、自分の中であれこれと理由をつけて勝ち誇ってしまうというものです。周囲からは滑稽に見えるかもしれませんが、ある種の人間的な強さでもあるともいえます。魯迅が寂寞に堪えるために培った術なのではないでしょうか。

この2つの物語の主人公は、偉人が感じた「弱さ」とそれに「打ち勝つ術」を教えてくれているのかもしれません。

 

 

阿Q正伝・狂人日記 他十二篇(吶喊) (岩波文庫)

阿Q正伝・狂人日記 他十二篇(吶喊) (岩波文庫)